それでもボクはやってない

【アマゾンプライム紹介文】
「就職活動中の金子徹平(加瀬亮)は、会社面接へ向かう満員電車で痴漢に間違えられて、現行犯逮捕されてしまった。警察署での取調べで容疑を否認し無実を主張するが、担当刑事に自白を迫られ、留置所に勾留されてしまう。勾留生活の中で孤独感と焦燥感に苛まれる徹平。さらに警視庁での担当検事取調べでも無実の主張は認められず、ついに徹平は起訴されてしまった。
・・・
周防正行監督が10年のブランクを経て完成させ、これまでの作風を一変させた社会派の1作。電車内で痴漢の容疑をかけられた青年が、無実を訴え続けるも、証拠不十分のために起訴されて裁判で闘い続けることになる。監督が痴漢冤罪事件を取材して練り上げた物語だけあって、細部まで綿密にリアルな展開。これまでの裁判映画では描ききれなかったシーンがいくつも登場し、最後まで観る者を惹きつけて離さない作りになっている。
留置場での日常は、経験していない人には驚きの連続だが、最もショックなのは「疑わしき者は有罪」という警察や裁判所側の姿勢。取り調べでの自白強要はともかく、冷静に判断しそうになった裁判官が急に左遷されてしまうエピソードが強烈だ。被告人の青年役を演じる加瀬亮を中心に、キャスト陣もそれぞれの役を好演。電車内での痴漢に関わらず、ちょっとした運命によって、その後の人生が一変してしまう怖さは、本作を観た人すべてが感じるはずだ。(斉藤博昭)」
痴漢冤罪を題材にした社会派のドラマです。非常に完成度が高く、リアリティ満点です。
映画を見る私たちは、いわば「神の目線」で真実を知ったうえで登場人物たちを眺めることができます。
だから、映画を見ながら、はなから犯人だと決めつけて取り調べをする刑事や同じように偏見に満ちた検事(副検事)の過ちを咎めることができます。
けれど、登場人物たちは自分の観点からしか見ることができません。
実は、この映画には、いわゆる「悪人」はひとりも登場しません。
強引な取り調べをする刑事も、主人公を起訴する検事も、最後に判決を下す裁判官も、みんな社会を守ろうと善意で正義のために自分の職務を全うしているだけです。
「神の目線」で映画を見る私たちからは、真実を知らずに偏見に基づいて冤罪を生み出すことに奉仕する刑事や検事、誤審する裁判官は悪者に見えますが、現実世界では、だれもが「神の目線」で見ることができないがゆえに、この映画の刑事たちと同じ過ちを犯してしまうリスクを負っているし、大多数の正しい判決に紛れて冤罪の誤審の存在にすら気づかれなくなります。
経済学の用語で「合成の誤謬」または「総合の誤謬」という概念があります。
ミクロの観点では正しいことでも、マクロの視点では誤りを生むことをいいます。
会社組織の個々の部門で従業員が正しく稼働しているにもかかわらず、会社全体としては損失や害悪を生じてしまうような事態は稀なことではありません。
合成の誤謬を回避するためには、全体を構成する個々のパートの担当者が全体的な視座を持てばよいという簡単な話でもありません。自分の担う役割を最大限発揮するには、むしろ自分の目線以外を排除して余計な仏心に邪魔をさせないことも大切だからです。
医療の分野のように、機器の進歩によって人間の知覚や判断を超えて真実を見抜く技術が伴いにくい司法の分野では、どうしても人間頼みにならざるをえないので、やはり、合成の誤謬を排する仕組みを何重にも組み込んだ制度設計と最終判断者のマインドセットにかかってこざるをえないのかもしれません。
映画の最後に字幕で引用されるアフェニ・シャクール(ラッパーで、1996年9月ラスベガスで何者かに射殺された2パック・シャクールの母親)の言葉
「どうか私たちをあなたたち自身が裁いて欲しいと思うやり方で裁いてください。わたしのいうことはそれだけです。」
が印象的です。
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